どういう訳か、最近覚えた噺に権助がよく登場します。 特別に意識はしていなかったのですが、 ふと気付くと「また権助か…」って感じです。 これほど自然に、何のこだわりもなく権助が出来るとは! 自分の変化に少々驚いているのでございます。 北海道の片田舎出身でありますから、 ワタクシは紛うこと無き田舎者、 権助そのものと自覚しております。 今はヘとも思いませんが、 十代のころのコンプレックスは相当なものがありました。 浪人、大学の5年間東京で暮らしまして、 「東京生まれもアタシらと同じジャン」 という当り前のことに気付きましたが、 それでも田舎者意識は付いてまわります。 落研の先輩のやっていた「一分茶番」(権助芝居)を見て、 いつかこの噺をやってみたいと思いましたが、 厚顔無恥の権助は自分には無理だなと思ったものです。 元々江戸落語には地方蔑視というか差別感情があるように感じます。 江戸の成り立ち自体がかなり人工的で地方出身者の集合体。 文物の中心は上方で、江戸に下ってきたものはいいモノであり、 下らないモノは文字通り下らん価値がないという、 江戸人のコンプレックスの裏返しがこの意識になっているのでしょう。 気鋭の落語評論家が、 落語ってえのは京大阪や江戸といった大都市のもので、 地方とは相容れないものだと言ってましたが、 確かにそういう側面があるのは感じます。 ただこういう感覚を持つのは、 我々くらいの世代が最後かなとも思います。 ウチの子供達を見ているとそういう意識とは無縁です。 ボーダレスな時代になって日本中どこへ行っても同じ。 何処でも落語が受け入れられるというか、 落語の地方差別意識を日本中で共有できる世になったってことでしょうね。 世田谷区民のセレブ感覚を笑うTV番組なんか見てると、 ホントにそう感じます。 これは世田谷区民が権助扱いを受けてるってことで、 当人もそれを承知で笑いを取りにいってる訳です。 慶賀すべきことでしょうなァ。 権助が市民権を取得して特別な存在でなくなった。 これでアタシも何の抵抗も感じずに権助をやることができます。 |
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